アネモネが不在であるのを良いことに、マスターは店の一階である広々とした空間で書類仕事を進めていた。ただ、昼過ぎには別人の影が見えることをわかっていてのことだった。 玄関扉が開く。彼の視線の先には両手や背に大きな荷物を持ったロアがいた。 彼は有線のイヤホンを耳から外しながら席を立ち、「手伝おう」とロアに歩み寄って手を貸す。その荷物の中身が、この店の運営に必要なものだからだった。
「何を聞いていたのか」 ロアに表情は無いものの、声が興味深いとばかりに少々弾んでいた。マスターはその変化に気づいているのか、微笑で答える。 「好きな曲。音楽はいいぞ。必ず前に進んでいくものだから」
ロアは荷物をおろしながら「ほう」と呟き、彼の手元にあったミュージックプレイヤーを見つめる。マスターは続ける。
「例えば、楽器を弾き間違えたとしても、後ろに戻ることは出来ない。ソロならやり直してもいいのかもしれないけど、それでミスがなかったことにはならない。その点シビアだけど、だからこそ完成されたものは素晴らしいよ。相応の道具を使えば、それがいくらでも聞けるんだ。私たちは恵まれているんだろう」
カバンの中から取り出される品々をロアが手渡し、マスターが棚に閉まっていく。その間にマスターが話す言葉は、ロアにとっては新しい視点を持つものだった。
「ま、受け売りだけどね」 「……誰の受け売りだ」 「枢要さんの」 「枢要――いわゆる『主人公』か」 「そう。あの人は音を頼りに心を動かすからね」
ロアは、マスターがどのような旅をしてきたのか、知っているようで知らない。断片的な話は聞くものの、全体像は全く掴めていないのだ。けれど、『主人公』の名ぐらいは知っていた。であれば今彼から紡がれた言葉は、物語の断片になるのかもしれない。
彼も『今』を生きている一人だ。音楽同様、前に進むことしかできない。けれど、シテンという名の特殊な旅種族でもある。それは過去に戻ることも容易いという意味だが、楽器を弾き間違えれば彼であってもそれをやり直すことはできないのだろう。音楽は、前に進んでいく。
ロアがそう思いを巡らせていた間、彼はカーテンの向こう側――窓の外に視線をやっていた。
「扉の向こうはもう夏ですか」 「いいや、まだ春だ」 「そうか。……たまには外に出て風に当たらないといけないな」 「風は苦手なのでは」 「そよ風程度なら大丈夫だから」
時は進んでいく。音楽が前に進むように。 巡る四季が連れてくる風が彼らのもとに届いたとき、また新たな物語が動き出すのかもしれない。