「あんたらだろう。ZOM(ゾム)の安全化(セーフィング)に強いクリーナーってのは」
面倒なのに捕まった、というのが彼女らの本音だ。中年の、細身の男性から声を掛けられ、二人の女は立ち止まる。 「教えてくれ。うちに所属している女がZOMになって困ってる。どうやって奴らを手懐けてるんだ」 男は、背の高い方の女を見てたずねた。だがそれは、懇願するといった聞き口ではなく、面倒事に巻き込まれたから早く終わらせて帰りたい、という魂胆が誰から見てもわかるものだった。 問われて気分のいいものではない。 「チーフぅ、どうするんですか? 集会遅れちゃいますよ?」 二人のうち、背の低い方の女が、もう一人の女の袖をくいと引っ張った。小声と上目遣い。引っ張られた方はぶりっ子のそれを気に留めず、目を細め、声をかけてきた男性をじっと観察する。 撫でつけられた髪、指紋や埃がついていない眼鏡のレンズ。プライドが高そう、というぱっと見の印象。武器の扱いや手入れは半端な独学らしく、危なっかしい形で腰に刺さっている。視線を下にずらせば、土がついた靴の底はほぼ擦り減っていない。正直に言って、ZOMのクリーナーとしては未熟だ。男の目を見る。数秒そのままだったが、『チーフ』と呼ばれた女はその後呆れたように鼻でため息をついた。 「まずは、その考え方を改めないと難しいですよ」 「なんだと?」 「女性に対して『奴らを』とか、『手懐けてる』なんて、まさかご自分の奥様にも同じ感覚で物を言ってるわけじゃないですよね?」 彼女は冷たく言い放つ。 それに男は反論しようとするも、言葉は音にならなかった。図星であることに気付かされた男は、歯ぎしりしかできずにいた。 それ見たことかと、女は荷物を背負いなおしてから忠告する。 「貴殿には、女性の部下に対する配慮が少々欠けているように見受けられます。これでもし、私に対しても『女の癖に』と腹の中で考えたのなら、残念ですがZOMになった女性をセーフティレベルにまで戻すのは無理です。私にも教えられることはありません。では、先を急いでるので失礼します」
──この世界にはZOMという名の存在がいる。たとえばゾンビ。たとえば幽霊。どれも凶暴で、執念深い。死者と評する者もいるが、ただしく死んでいるわけでなく、魔法で『仮想的な死』を植え付けられた特殊な存在だった。 魔法であれば、その魔法を解けば元に戻すことができる。生き返る。だが、現時点でその魔法を解く明確な方法は見つかっておらず、ZOMと化した人々はそのままの姿で生活を送ることになる。 そのためZOMが暴走しないよう、この世界の至るところにはZOMの『安全化(セーフィング)』を目的とした、『クリーナー』と呼ばれる人員が配置されている。 そのうちの一人が、この女だった。 見知らぬ誰かから声をかけられる程度には、彼女のクリーナーとしての名声は高い。 彼女は無言でその場から立ち去り、男性の姿が見えないぐらいのところまで歩いてから、どっと疲れた時の顔で空を仰いだ。 「あー、胸糞悪いおっさんだった。でも負け犬のような台詞を吐かないだけ、まあマシだったか」 「ああ……やっぱりチーフはそこらの男よりずっとクールでイケメン!! 私はどこまでもついていきますからね」 そんな彼女の横顔をうっとりと見つめる相方の反応は、彼女にとって日常茶飯事であるが少々癖が強い。 ZOMのクリーナーは二人一組で活動する。メインで活動を仕切るクリーナーと、そのサポーター。ペアを組んで四六時中行動を共にしていれば、その癖の強さには慣れるものだと、チーフと呼ばれた彼女は言う。 「桁山(けたやま)、道案内さぼらない。今は私があんたについていくしか集会所に着く方法は無いの」 「そうでした! 今回の会場は大通りに出たとこを右折するとあるはずなので、このまままっすぐ行きましょう!」 ZOMに関する情報は、全てサポーターの持つデジタルデバイス──この桁山という女性の場合、それはスマートフォンだった──に配信されることになっている。今日この街にやってきたのも、そのデバイスに来た通知がきっかけだった。ZOMクリーナーの集会は、参加が必須ではないものの、通常配信と異なる重要な話が聞けるので、彼女らはなるべく参加を心掛けている。 今日は一体なんの情報が得られるのだろうか。
二人が地図を頼りに道を辿って、指定された集会所に着くと、大勢のクリーナー達が集合しているのが遠目にわかった。男女が入り混じるが、華美な服装の女はいないし、男にも女の尻を追いかけるような輩はいない。対ZOM用の武器や防具を纏った、いたって真面目な者ばかりだ。 ふと、後ろから肩を叩かれる。チーフが振り返ると背の高い男が彼女を見下ろしていた。見覚えのある顔に、彼女は声をあげる。 「ナッシンじゃん。あんたも来てたんだ?」 「おい、その呼び方を部下の前でするのはやめてくれないか……」 「あっ、小鳥遊(たかなし)課長だ、お疲れ様です!」 桁山から小鳥遊と呼ばれた男はチーフの同期で、課長という肩書こそチーフより上だが、ZOM騒動に巻き込まれるより前から親しくしている友人だった。チーフ同様、彼も今はクリーナーの一人。集会参加者としてここにいた。 「ああ桁山、お疲れ様。ここで残念なお知らせだが、サポーターは今日の集会は参加できないぞ」 「えーっ!? 嘘でしょ、折角来たのに!」 「俺は予め聞いていたから、相方は置いてきたんだ。そう長い話じゃないだろう、外で待ってればいい」 チーフと桁山がタッグを組んでいるように、本来であれば小鳥遊にもサポーターがいるはずだったが、確かに今日は見当たらなかった。 「もーっ! チーフ、早く戻ってきて内容教えてくださいね。そうじゃないと私、拗ねちゃいますからね!!」 抱き付こうとする桁山を手で押しのけ、チーフは入口で配られているレジュメを手に取る。桁山には代わりに、自分の羽織っていたコートを押し付けた。 「まったく。あんたはいつ何時でも拗ねてるでしょうに」
~・~・~・~
小一時間後、桁山は先ほどチーフが受け取ったレジュメが彼女の手元でくしゃくしゃになっている様を見ながら、横からその顔を覗き込む。 「おかえりなさいチーフ。なんの話があったんですか?」 苦々しい表情で立っているチーフの脇を、大勢のクリーナーが通りすがっていく。表情はどれも落胆や呆れであり、怒る者もいれば困り果てている者もいる。 いい知らせではなかったようだ。 桁山は、チーフが書き加えたと思しき走り書きのあるその内容を、肩を並べて確認する。印字されている文字はすべて日本語で、明朝体。だが中心に描かれている地図は、見慣れない地形の上にあった。 「新規ダンジョン?」 「……とある廃墟がZOMダンジョンとして解放されたらしいんだけど」 珍しくわなわなと震え、冷静さを欠いているチーフがぐっとそのレジュメを握りしめる。桁山は一歩距離を置いて、思わず身構えた。 「さっきの胸糞悪いおっさんが近くにいて、ぜんっぜん話に集中できなかった!」 「あっ、全然集会の内容とは関係ないとこで憤ってらっしゃるんですね。良かった!」 「集会のお偉いさんの話は、ナッシンが聞いてくれてるからいいのよ」 「おい、人頼みはこの世界で命の危機を招くってチュートリアルでやっただろ」
後ろにいた小鳥遊が、彼女の代わりに冷静に腕を組んでいた。 話を聞けなかった桁山のため、三人は情報共有を始める。集会所の外で、輪になってしゃがみこんでいた。 小鳥遊の説明するところによると、条件を満たさなければ侵入が許可されないダンジョンが新規に解放され、その詳細が公表されたという。 レジュメに記載されているのはその最深部にいるという、危険度の高いZOMに関する報告だった。ZOMは複数体いると推測され、既に戦闘を経験した一組のクリーナーの話では、並大抵の実力では太刀打ちできなかったという話である。
「なるほど~。負傷者が多数出たから、一定のランクが無いと入れないんですね。どの位のランクが必要なんでしょう?」 レジュメに記されているのは、ZOMそのものに関する情報とダンジョンの地形のみで、侵入のための条件に付いては明記されていない。集会に参加した者にしか知らせないということだろう、と補足しつつ、桁山の問いには、小鳥遊が答える。 「大半の集会参加者は対象外だったみたいだ。高ランクのクリーナーしか入れない。だからランクの発表があったときは、まあブーイングが酷くてな。もし自分の関係者がZOMになってダンジョン内にいたとしても、今時点では助けることができないからだろう」 改めてレジュメに目を通すチーフが、素っ気なく男に尋ねる。 「そういうあんたは?」 「残念なことに、俺のランクでも対象外だ。そもそも部下であるZOMの数が少なすぎる、仕方ない」 ZOMクリーナーのランクは、これまでに安全化(セーフィング)したZOMの人数や実績に応じ、自動で格付けされる。ZOMと対峙した数が少なければ、どれだけ優秀なクリーナーであっても低く、逆に場数を踏んでいれば自然と上がっていく基準のひとつだった。今回のダンジョンは、経験豊富なクリーナーのみ立ち入りが許可されるということになる。 「小鳥遊課長、結局ランクいくつなんですか」 「俺か、俺のランクは──」 「違いますぅ。ダンジョンの侵入可能ランクです」 「あ、ああ……そっちか」 言葉の取り違いではあったが、心なしかしょんぼりとしてしまった男の背に、チーフが腕を回してバンと勢いよく叩いた。痛みに思わず呻き声をあげた小鳥遊が、手からレジュメを取り落とす。桁山はそこに書かれた小鳥遊の手書き文字を覗き見て、チーフが持っていたレジュメにそのまま書き写した。そして、にんまりと笑う。 「なーんだ。チーフってば、余裕で入れるランクじゃないですか!」 「まーじで」 さほど関心なさそうにチーフはその情報に返事をした。 「マジです。しかも、余裕で、ってのがミソですよん」 桁山は、チーフのパーソナルデータ画面をデバイスに映し出す。そこには、しっかりとプレイヤーランクが所属名の隣に記載されており、それは彼女らがレジュメに書き込んだランクよりも、プラスが二つほど多かった。 桁山の手首をつかんでその画面をまじまじと見つめる小鳥遊は、驚いて画面とチーフの顔を交互に見やる。彼の想定よりも、それがはるかに高いレベルであったからだった。最終的にその顔は桁山の方向に固定され、彼の驚愕は小声での会話へと昇華される。 「桁山。お前の上司は自分のことに頓着が無いから、もう少ししっかり自身の情報を叩きこんでやってくれ。普通は自分のプレイヤーランクくらい、覚えているもんだろう」 「でもっ、小鳥遊課長はご存じじゃないかもしれませんが、うちのチーフってばそういうところが可愛いって評判なんですよ! 課長もそう思いませんか!」 「そういう問題じゃない!」 会話はほぼチーフにも聞こえているが、彼女はなにも言わずにその様子を眺めていた。滑稽な茶番に見えたのだろう。テレビ番組のバラエティを見ているときの彼女の様子と大差ない。
茶番をひと通り繰り広げた後、小鳥遊はチーフに向き直り、姿勢を正した。 「頼む、うちの部下もこのダンジョンに巻き込まれているかもしれない。助けろとは言わない。姿を見かけたら情報をくれないか。報酬は正当な額を支払う、約束する。なんなら前払いだっていい」 「ナッシンは私がこのダンジョンに行くって決めつけてるわね」 「お前のことだ。行くに決まってる」
ZOMクリーナーには重要なルールがあった。 クリーナーによる実力行使は、自身が責任者を務める組織の所属員がZOMになった場合のみ許可される。親兄弟であっても赤の他人であっても、組織外からの対処は許可されておらず、全ての責務は組織のトップにある。誰が取り決めたか知らないが、そういうことになっている。そのため、チーフや小鳥遊が安全化(セーフィング)を行えるのは、すべて自分の直属の部下に限られている。 そもそも今回解放されたダンジョンのボスである『危険度の高いZOM』からして、何処かの組織に属する人間が変貌を遂げた姿なのだ。もし自分達の部下だったら、という想像は容易い。 チーフは胡坐をかいた上に頬杖を突き、考えた。レジュメに記された地図をぼんやりと見つめ、得られた情報を整理する。これからこのダンジョンに向かって、勝算があるのかどうか、メリットがあるのかどうか。何よりも、そのZOMが自分の部下なのか、そうでないのか。 やみくもに殴り込みに行く場所ではないはずだと、頭の奥で警鐘が鳴り響く。 「チーフ。一番乗りで行けば、うち所属の子を見つけた時点で、確実な安全化(セーフィング)ができますよ。他の会社の人間に見つかって蹴散らされるより、よほど安心できるかと」 桁山がそう補足した。今までの茶化す場面と違い、落ち着いた声色だった。 頬杖はそのままに、チーフは視線をちらと横にそらす。この空気で、拒否するわけにもいくまい。 「そうね……報酬はどうでもいいけど、うちの子がいるかもしれないなら、可能性が低くても行かなきゃいけないわね」 「本当か!」 その言葉で、桁山と小鳥遊の表情がぱっと明るくなった。特に桁山は、喜び勇んで勢い良く立ち上がった。じっとしていられない、というのが伝わってくる。 「なら決まりですね! ふふふ、こんなこともあろうかと、先ほどの空き時間でこれまで安全化(セーフィング)したZOMのデータを再整理しておきました。チーフ! 今こそ私達の底力を見せる時ですよお!!」 高いテンションで声をあげる桁山が、小一時間で作成した電子資料をチーフに見せびらかす。チーフは真顔でその画面をしばらく見つめ、すっと頬杖に使っていた手から人差し指を突き出したかと思うと、流れるようにスライドしていく。 「へえ、底力はともかくデータに関しては超優秀だわ。神かよ」 「やーんありがとうございます! もっと褒めてください!!」 やはり抱き付こうとする桁山には腕を伸ばし、一定の距離を保つチーフだったが、差し出されたデバイスの画面をスライドさせながらデータの確認をする目は真剣そのものだった。その一方で、彼女の口元は楽しげに緩んでいる。 「だが、気を付けろよ。いくらお前が高ランクのクリーナーだからって、仮にも負傷者が出てるダンジョンだ。何があるかわからない」 「当たり前じゃない。ねえナッシン、ちょっと手貸してよ。久しぶりに本気出さなきゃならないっぽいからさ」 チーフは立ち上がり、腕を捲った。
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ダンジョンの入り口にはZOM管理局の警備員がいたが、身分証の提示で一同はあっさりと中に入れた。だが対応する警備員の、突如現れた人影に驚きも警戒もしない様子には釈然としないものがあった。やけに事務的で、ZOMでもないのに退廃した空気を纏っていた。この世界の在り様を体現しているようだった。 チーフが先頭に立ってぼんやりと呟く。 「他に問題があるとすると」 何を言うのかと、疑問符を顔に貼り付けた桁山が瞬きをする。彼女のその顔を横目に、チーフはくるりと後ろを振り返る。 「この人数でダンジョン探索に出るのが初めてってとこかしらね」 二人の女の後ろには、チーフが過去に安全化(セーフィング)したZOMが複数名ついてきていた。全部で三人。チーフと桁山を加えると、合計五人のパーティーだった。
ZOMは、魔法が解けない限り元の人間に戻ることができないが、安全化(セーフィング)済みである場合、ZOMとしての特殊な能力を実力者──すなわちクリーナーのために使うことが許可されている。ただ大人しくさせるよりも自衛ができる分、クリーナーにもメリットが大きい。今回のように、他のZOMに対する安全化(セーフィング)をサポートする目的で連れ歩く者も、街中ではよく見かけることができる。 いま二人についてきているZOM達も、元は全員二人の部下だ。チーフが安全化(セーフィング)したZOMのほとんどが、理性さえ戻っていれば素直に彼女に従う者ばかり。言葉でのやり取りもできるし、人に危害も与えない。今回はハイレベルダンジョンという事前情報から、チーフもサポーターの数を普段より増やしたのだった。
デバイスを片手に真剣な面持ちの桁山が、そっとチーフに耳打ちする。 「そろそろダンジョンの中核部に入ります」 「おっけ。じゃ、情報の再確認するから、皆こっち集まって」 チーフは後ろをついてきていたZOM達に、手招きをする。警備員が立っていた入口から歩いて数分。森に囲まれたそのダンジョンは、開けた場所に立っている廃墟であるという。 その建物が見えるか見えないかの位置で、一同は立ち止まった。 再度レジュメを広げ、説明する。 「既にこのダンジョンに潜ったクリーナー達の証言が、三者三様、てんでバラバラだったという件は事前に話したわね」 ZOM達が頷いたのを確かめてから、桁山が説明を引き継ぐ。 「今回のZOMに関する情報は、ハイレベルダンジョンのボスだから一般配信されていないの。レジュメに書いてあるのはそのバラバラな情報の箇条書きだし、つまり実際は対策しようにも、チーフと小鳥遊課長が集会で聞いた補足情報だけが頼りなのね。で、その情報を改めてまとめると、ダンジョン内では幻覚を見る可能性が高いってことになったの」 幻覚を見させられるダンジョン。 その説明に、凍傷を包帯で隠したZOMがおずおずと手を挙げる。 「チーフ、桁山さん。その……私達も幻覚を見てしまう可能性は」 「うー、情報提供者が全員クリーナーだからなあ、ZOMの場合はどうだろ……」 「無いとは言い切れないでしょうね。むしろ安全化(セーフィング)されたZOMである貴女達なら、見る可能性は十分ある。特に貴女は優しい子だから、影響もうけるかもしれない」 チーフがきっぱりと言い切った。言われたZOMは、思わず身を守るように手を胸元に引き寄せた。不必要に不安がらないよう、チーフはZOMの肩に手を置き、そのまま腕にかけて撫でるように動かした。ZOMは心配そうにチーフを見上げているが、少し落ち着いたのか、笑っていた。 しかし、違うZOMが声を荒げる。 「ちょっと待ってよ、話違うじゃん。あたしは力勝負になるだろうから腕を貸せって言われてついてきたんだよ!? 幻覚とか見てまた発狂したらどうするのさ!!」 心臓の位置に穴が開いた、小柄なZOMだった。反抗的と言ってもいい彼女の態度に、桁山が眉間にしわを寄せる。だがチーフは気に留めずに意地悪く、そのZOMの頭を小突いた。 「ごめんごめん。でもあんたみたいな子なら、自意識しっかりしてるから大丈夫と思って今回呼んだのよ。その威勢のよさ、頼りにしてるんだから」 「え。お……おう。任せてよ」 口車にすんなりと乗った彼女の様子には、隣にいた年長のZOMが思わずほほ笑む。 「自分の過去を抉られるような幻覚でなければ、此処にいる全員、心配はいらないでしょう。どんな幻覚なのか、現時点でわかりますか?」 ZOMの質問に、桁山が答える。 「ええと、『誰もいない美術館を延々走らされた』とか、『銃声が乱れる砂丘での戦いに巻き込まれる』とか。ああ、あと『水槽の中に閉じ込められて魚達に取り囲まれる』なんてのもあります」 「トラウマを抉るような、物凄く危険な幻って訳じゃないけど、相応にやばそうだし、何より法則が見えなかった。注意するとしたらそこかしらね」 チーフがパン、と音を立てるように、レジュメを指ではじいた。深刻な表情をしているが、尋ねたZOMの方は穏やかに笑んでおり、余裕すら見えた。 「きっと大丈夫ですよ、一人ではないですもの。私達は、チーフを頼りにしてますし、信じてますよ」 「……ありがとね。あ、あんた毒ガスは最後まで使わないようにね。それ以外は自主的に動いてもらって構わないわ。私も、信じてる」 「かしこまりました」 そのZOMが丁寧にお辞儀をする様子には、優雅さすらあった。 再びダンジョンに向かって再び歩きだそうとした瞬間、小柄なZOMが頬を膨らませながらチーフをつつく。 「じゃあ、もしもだよ。万が一ホントにトラウマを抉られた時はどうしたらいいのさ?」 その心配そうな声に、チーフは見返り、静かに一言だけ告げる。 「自分と戦いなさい」
一同は歩みを中核部に向かって進める。森を抜けると、空が見えるほどの開けた空間があり、その中心にダンジョンである廃墟があった。 コンクリート製の外壁が崩れ切って、鉄製の基礎もひしゃげ潰れてしまったその様子は、彼女らの想像以上の荒れ様。繁茂しているコケやシダが部分的に踏み荒らされていたり、燃やされたような痕跡は、過去に訪れたクリーナーの残した傷。そして、ZOMが身をひそめるにしては、清々しすぎるぐらいの光を受けていたことだけが、場に似つかわしくない印象を彼女らに与えた。 ほぼ絶句の状態から、チーフはやっとのこと言葉を絞り出す。 「何これ、殆ど単なるがれきの山じゃないの。これじゃ廃墟のレベル通り越してるわよ」 どこから中に入ればいいのか、そもそも中という概念がこのダンジョンにあるのか、チーフは調べようと一人前進した。塀の名残を身軽に飛び越え、土がこびりついた窓ガラスの欠片を踏みつける。 何とか自立している部分に近づくと、元は玄関だったであろう位置のすぐ近くに、石碑のようなものがあるのを見つけた。顔を近づけるが、彫られている文字は日本語ではなかった。 「ん……読めないわね。桁山ちょっと翻訳機貸し──」 チーフは、背後を追ってきているであろう桁山に手のひらを向け、後ろを振り返る。
だが、彼女が差し出した手に触れるのは、生暖かい風だけだった。 繁茂する緑が、無秩序に揺れる。
その場にチーフ以外、誰も残っていないことに彼女はもっと早く気づくべきだったかもしれない。チーフは目を見開き、見える景色全てに神経を研ぎ澄ませるが、事実は変わらなかった。辺りを見回しても、変わらない。十分な警戒が必要であったにも関わらず、建物の中に入るまでは大丈夫だろうと高を括っていたことに、思わず舌打ちをする。
「してやられたか……!」
~・~・~・~
◇ それは赤い世界だった ◇
包帯が巻かれた部分に手を置き、そのZOMは縮こまった。 「チーフ……皆さん、どこですか……? どうしよう、まさかこれが幻覚?」 鼻孔に突き刺さる、血の匂い。人間のものか、他の動物のものかわからないが、少なくともこの場が安全でないことを示している。そのZOMは、不安に駆られて武器をとり出す。正確には生み出すと言った方が正しい。 それはその温度が、自身の身体すらも傷つける氷の剣だった。 しかし柄を握りしめたときZOMは、『特に貴女は優しい子だから、影響もうけるかもしれない』という直前のチーフの言葉を思い出した。 「──そうだ、これが幻覚なら、闇雲に攻撃をすると、見えないだけで近くにいるかもしれないチーフ達を傷つけるかもしれない。……私は、そんなことしたくありません」
彼女は独り言で自分を諭し、深呼吸をした。構えた氷の剣を水に流して、ノーガードの状態で立ち尽くす。 「どこかにZOMになった誰かがいるなら、その人を説得するのが一番なのかな」 周囲に目をやると、世界は錆びた血のような一色で染まっており、それ以外はなにも見えなかった。幻覚であるため視覚は当てにならない。ZOMはぎゅっと目を閉じる。 すると突然、彼女の耳をつんざくほどの音が飛び込んだ。それは車の急ブレーキによる音で、なにか、というよりも誰かが轢かれたような鈍い打音で止まった。はっとZOMが目を開けると、目の前にはトラックの下敷きになった青年の姿があった。彼女は反射的に悲鳴を上げる。 赤い空間には交差点しかない。取り囲む風景の中には他の通行人や、車、建物も何もない。信号機と、トラックと、白い縞模様のペイント。ただそれだけ。 だが彼女は慌てて、目に飛び込んできたその青年に駆け寄り「大丈夫ですか」と声をかける。しかし、青年の顔を見てどこに怪我をしているか、意識があるか確認しようとした瞬間、赤い世界が音を立てて一変する。