「あら、チョコレートね。貴方の作ったお菓子、久しぶりだわ。バレンタインデー? サンクスデーの方がいいかしら?」 「別に、呼称はなんだっていいと思う」 「照れてる?」 「そんなんじゃない。要らないなら返してくれたっていいんだけど」 「ふふ、有り難く頂戴するわよ」 オーナーさんはそう言って、ラッピングを解いた中から出てきた菓子の一つをつまみ、 「うん、美味しい」 と顔を綻ばせた。

普段、というかいつも笑っている人だから、それは特別な表情ではないけれど、僕はその綻びが嬉しかった。ささやかな見返りだ。そう思ったのに、彼女は続けてこう言った。 「折角頂いたのだから、三倍返しさせて頂戴ね。ホワイトデー? それとも他の呼び方知ってる?」 僕は飲んでいた紅茶でむせそうになった。この喫茶店の馴染みの味。それは、むせそうになるところまで含めてだったかもしれない。ゲホゲホと咳をしながら返事をする。 「べ、別に、呼称はなんだっていいと……ああ、それに文化自体が無い土地もある。お返しなんて気にしなくていいよ」 期待していたわけではない。むしろ無い方が気が楽だ、ホワイトデーなんて。けれど、オーナーさんはそうではないらしい。 「いいのよ、私が腕を振るいたいだけなのだから」 この人の場合多分、自身が楽しみたい気持ちが先かもしれない。けれどそれならそれでいいかと、僕は静かに息をついた。渡したチョコレートは、この人の幸いを願って作ったものなのだから、それでいい。

開いていた窓から、澄んだ風が舞い込む。カーテンがわずかに揺れた。外を見て、オーナーさんは朗らかに言った。 「まだ寒いかしら」 「そうでもないと思うよ」 「じゃあ、もう春ね」 「……春だね」 僕も窓の外に視線を移し、答える。

テーブル席の向かいにオーナーさんが腰掛ける。彼女は自分の分の紅茶をカップに注ぎながら、口を開いた。季節柄、節目ゆえにそれを聞くのだろう。 「時を渡ることもできる貴方にとっては、関係のないことかもしれないけれど、貴方が、この店のただの常連を卒業してから、色々なことがあったでしょう。私の知ってることも、知らないことも、きっと沢山。ここまでどうだった?」 言われた僕は自身のことを振り返る。けれど、多忙だったせいだろうか。記憶を掘り返すことができなかった。僕は、少し誤魔化すために言う。 「……卒業できてるかどうか、わからないよ」 「そうかしら?」 「『ただの常連』ではなくなったかもしれない。でも、結局貴女のところに帰ってきてしまう。これでは、卒業したと言っていいものか」 「でも貴方、うちの支店の店長でしょう?」 「そりゃあ、支店の店長です。一応」 わずかにではあるけれど、襟を正すような姿勢をとった。 「なら、縁が途切れるはずはないわ。貴方はここに帰ってきていいの」

彼女が紅茶に息を吹きかける音が、静かな中で聞こえる。以前ならば、客の前で店主が茶を飲み始めるだなんて、と言いかけてもおかしくないところではあっただろうが、今はそう、ただの従業員会議中のようなものだ。何もおかしいところはない。変化の一つだった。 微笑みを絶やさないオーナーさんが、話を続ける。

「卒業って、旅立ちの意味でもあるでしょう。始まりと紙一重の言葉。貴方が始めた新しい物語がここまで続いていて、それを見ていられること。それが私にとっては幸いなことなのよ」 僕は、彼女が自分の口で幸いであると言ったことで、僕の考えなぞ、さもお見通しだと伝えたいのだろうかと思ってしまったので、わずかに複雑な心境ではあった。けれど、悪くはない。 「なんせ僕自身の物語で、最高の支払いでお返しすると、自分で言っちゃったから」

ここは、cafe chokerという名の喫茶店。支払いはとびきりの物語で。そんな店だ。僕が紡げる物語なんて大それたものではないけれど、最高の物にしなければ、この紅茶を楽しめなくなってしまうから。 それは、支店の店長だなんて肩書きは通用しない、この店のルール。

「なら、出来るだけ末永くね」

いつもの微笑みがわずかに意地悪そうなものに、僕には見えた。悔しいけれどこの人の上手を行くことはできないし、そうしてはいけないのだろう。 この時間がずっと続けば、それは僕にとっても幸いなことだ。けれど僕は旅人でもある。次の旅支度を始めなければ。彼女の淹れた紅茶が冷めないうちに。 僕はカップの中のそれに口をつけ、春と一緒に飲み込んだ。


うぉんさんリハビリ課題【8】 条件:「ホワイトデー」「卒業」 課題【3】伝統的な祝日らしい ←これの続きらしい

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